【国土を脅かす地震と噴火】49 北丹後地震㊤ 残雪で家屋の倒壊が拡大/伊藤 和明

2019.02.21 【労働新聞】
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全壊が1万3000戸に上る
イラスト 吉川 泰生

 1927年(昭和2年)3月7日の午後6時27分、京都府の北部、丹後半島の付け根に当たる部分を震源として大地震が発生、2925人の死者を出す大災害となった。前年の12月25日に大正天皇が崩御し、元号が昭和に変わってからわずか2カ月あまりに起きたこの大地震は、「北丹後地震」と名付けられている。

 当時はまだ、4年前に起きた関東大震災の後遺症が、日本経済に重くのしかかっている最中であった。そのうえ、北丹後地震から8日後の3月15日には、金融大恐慌の引き金となった東京渡辺銀行の取付け騒ぎが発生している。まさに、昭和の激動期を予感させるような大震災であった。

 北丹後地震は、活断層の活動によって発生した典型的な内陸直下地震である。M7.3で、1995年1月17日に阪神・淡路大震災をもたらした兵庫県南部地震や、2016年4月16日の熊本地震とほぼ同規模であった。

 実はこの地震が起きる2年前の1925年(大正14年)5月23日には、すぐ西に隣接する地域で、北但馬地震(M6.8)が発生している。兵庫県北部の豊岡や、温泉地として名高い城崎といった地域で、多くの民家や温泉旅館などが倒壊した。火災も発生し、死者は428人を数えた。その余燼(よじん)がまだくすぶっているなか、北丹後地震が発生したのである。

 地震による被害は、北近畿を中心に、中国・四国地方にまで及んだ。なかでも被害が集中したのは、丹後半島の頚部に当たる長さ約15キロの範囲であった。日本三景の1つとして知られる「天の橋立」付近から、現在の京都丹後鉄道宮豊線の路線に沿って、網野・峰山・山田などの町(現・京丹後市)で被害が大きかった。家屋の倒壊率は70~90%にも達した。

 この年の冬はとりわけ寒くて降雪も多く、3月初旬になっても、まだ1メートル程の積雪が残っていた。このため、地震の激しい揺れのうえに雪の重みが加わって、多数の家屋が倒壊したのである。全壊した家屋は、約1万3000戸にも上ったという。

 しかも、地震の発生が、夕食の準備のため火を使う時間帯と重なっていたことから、各地で火災が発生した。

 2年前の北但馬地震で大きな打撃を受けていた城崎では、火災により2300戸以上が焼失した。峰山町、網野町、与謝野町では大火となり、約8300戸が焼失している。ほとんどすべての家屋が全壊または全焼した峰山町では、人口に対する死亡率が22%にも達した。なかには、夕食中の家族全員が死亡した例もあったという。そのほかの村々でも、市場村で12.2%、吉原村で10.1%、島津村で8.2%の死亡率とされている。

 小学校の校舎も、13校で全壊または全焼した。しかし、地震の発生が放課後だったため、校内で死傷する児童などがいなかったのは、不幸中の幸いであった。

 当時の『朝日新聞』号外の見出しには、「呪はれた丹後半島の光景、実に凄惨を極む」と記され、「峰山、網野の両町、全く焦土と化す」などと記載されている。

筆者:NPO法人 防災情報機構 会長 元・NHK解説委員 伊藤 和明

〈記事一覧〉
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【国土を脅かす地震と噴火】50 北丹後地震㊦ 近代的観測研究の扉開く/伊藤 和明

この連載を見る:
平成31年2月25日第3198号7面 掲載

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