【国土を脅かす地震と噴火】11 宝永の大噴火 江戸にも火山灰が積もる/伊藤 和明

2018.03.22 【労働新聞】
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十里木高原から臨む宝永火口
写真 澁谷 實

 平安時代にたびたび大噴火を引き起こした富士山は、1083(永正3)年の側噴火以後350年ほどは、顕著な活動もなく、山頂から静かに噴煙を上げる程度だったことが、多くの和歌などから読み取ることができる。

 しかし、江戸時代中期の宝永年間、富士山は突然の大噴火を発生させた。

 1707年10月28日(宝永4年10月4日)、歴史時代に日本列島を襲った地震としては最大規模といわれる宝永地震(M8.6)が発生、東海地方から近畿、四国、九州にかけて大災害をもたらした。今でいう南海トラフ巨大地震である。

 この大地震から49日後の12月16日(旧11月23日)午前10時頃、富士山の南東斜面から噴火が始まった。このとき開いた噴火口は、現在でも東海道新幹線の車窓からも望見でき、「宝永火口」と呼ばれている。上から順に、第1、第2、第3の3つの火口から成っているが、第1火口だけが飛びぬけて大きいため、麓からは第1火口の大きな窪みしか目に映らない。

 噴火の前夜から、富士山麓一帯では強い地震が頻発し、宝永地震で傷んでいた家屋が倒壊するほどであった。そして、噴火が始まると、山麓の村々には焼け石や焼け砂が絶え間なく降り注ぎ、家も田畑もたちまちその下に埋まっていった。

 富士山から東へ100キロ以上も離れていた江戸にも、細かい火山灰が降った。昼でも暗夜のようになったという。このときの江戸市中の模様については、伊東祐賢の『伊東志摩守日記』や、新井白石の自叙伝ともいうべき『折たく柴の記』などに、詳しく記されている。

 江戸では、噴火後10日あまり灰が断続的に降り、ときには粟粒ほどの黒砂が降りしきって、家々の屋根に落ちる音が、大雨のようだったという。このとき江戸市中に降り積もった火山灰の厚さは、2~5センチ程とされている。火山灰は、その後風が吹くたびに飛散し、江戸の市民を苦しめた。風邪が流行し、人びとは咳が止まらず、長いこと呼吸器疾患に悩まされたという。

 一方、富士山の南東から東の山麓に点在する駿東郡の村々には、大量の噴石や火山灰が降り続いた。とりわけ、噴火地点に最も近い須走村には、直径40~50センチもの焼け石が激しく降り注いだ。焼け石は、地表に落下すると、粉々に砕けて燃え上がった。直撃を受けた家屋はたちまち炎上し、焼け石に打たれて死傷する者もあった。須走村では、75戸のうち37戸が焼失、残りの家屋もすべて倒壊したという。

 壊滅した須走村のほかにも、大御神村、深沢村、用沢村など、現在の御殿場市や小山町に当たる集落では、降り注ぐ焼け石や焼け砂によって、家も田畑も埋まっていった。住民はみな村を捨てて、命からがら避難していくのが精いっぱいであった。

 こうして、1月1日(旧12月9日)の未明に16日間続いた噴火が終わるまで、50あまりの集落が、噴出物の下に埋没してしまったのである。

筆者:NPO法人防災情報機構 会長 元NHK解説委員 伊藤 和明

平成30年3月26日第3154号7面 掲載

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