【国土を脅かす地震と噴火】37 陸羽地震と千屋断層 大地が子供に襲いかかる/伊藤 和明

2018.11.08 【労働新聞】
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4分の3以上の家屋が全半壊

 大災害となった明治三陸地震津波から2カ月半を経た1896年(明治29年)8月31日、東北地方は内陸直下の大地震に見舞われた。「陸羽地震」と呼ばれており、規模はM7.2、東北地方の内陸部が震源の地震としては最大規模のもので、死者209人を数えた。

 秋田県東部から岩手県西部にかけて激震に見舞われた。とくに、秋田県仙北郡の千屋、畑屋、飯詰、六郷などの町村では、75%以上の家屋が全半壊した。全壊家屋は、現在の美郷町を中心に約5800戸にも達した。岩手県側でも、雫石や花巻で全壊家屋が生じ、とくに花巻は、地盤の悪いこともあって44戸が全壊した。

 陸羽地震が発生したのは、8月31日の午後5時6分過ぎである。本震の1週間以上前から、前震と思われる地震が起きていた。本震の当日、まず朝の8時38分にM6.8、午後4時37分にM6.4の地震があり、その約30分後にM7.2の本震が発生したのである。

 このとき、震源のほぼ真上にあった千屋村では、家屋が倒壊したり焼失したりするだけでなく、地盤が液状化を起こし、地割れから泥水が噴出した。千屋村だけで、家屋の全壊は338戸、焼失7戸を数えた。34人が死亡している。

 地震発生とともに、地表には落差3メートルほどの地震断層が出現した。断層の活動は、北は田沢湖南東の生保内から角館の東方を経て、南は横手に近い六郷付近まで約30キロにわたって続いた。

 この地震断層は、地表の食い違いが最も顕著に現れた千屋村の名をとって、「千屋断層」と名付けられている。千屋断層は、奥羽山脈の一部に当たる真昼山地と、西側の横手盆地との間をほぼ南北に走る活断層で、陸羽地震のときには、東側の土地が最大3.5メートルも隆起した。千屋断層を挟んで、西側の土地に東側の土地がのし上がるかたちとなり、1枚の水田が上下2段に分割され、一部が重なり合った所もある。

 また、真昼山地の東麓、岩手県側の和賀川に沿っても地震断層が出現し、「川舟断層」と呼ばれている。つまり、千屋断層と川舟断層という2つの活断層が活動して、陸羽地震を引き起こしたのである。

 地震が発生したとき、折悪しく7人の児童が山のきわで遊んでいた。男の子4人と女の子3人で、戦争ごっこをしていたという。日清戦争で日本が勝利した後だったから、子供たちの間にもそんな遊びが流行っていたに違いない。そこへ激震とともに、大地そのものが襲いかかってきたのである。

 子供たちは、地震の直後、のしかかってきた山側の地盤に呑みこまれてしまった。機敏に飛び出した最年長の男子と、村人に助け出された女子1人を除いて、残りの5人は崩落した地盤の犠牲になったのである。一方の土地が他方の土地にのし上がるという断層の活動が、5人の幼い生命を奪ったことになる。

 陸羽地震を起こした千屋断層の食い違いは、今でも地形にはっきり残っている。地元自治体は、各所に標柱を立てるなどして保存地区に指定している。

筆者:NPO法人 防災情報機構 会長 元・NHK解説委員 伊藤 和明

この連載を見る:
平成30年11月12日第3184号7面 掲載

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