【国土を脅かす地震と噴火】39 鳥島大噴火㊦ 絶滅からアホウドリ救う/伊藤 和明

2018.11.29 【労働新聞】
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まさか生存していたとは……
イラスト 吉川 泰生

 1902年(明治35年)鳥島の大惨事は、当時の社会に大きな衝撃を与えた。政府はただちに震災予防調査会に命じて鳥島の実地調査を行わせた。田中館愛橘、大森房吉、神保小虎など、当時を代表する地震学者や地質学者が、横浜に帰港したばかりの兵庫丸や、軍艦高千穂に分乗して鳥島へ向かった。

 8月24日、鳥島に到着した調査団は、約1週間にわたり詳しく調査した。その結果と、噴火の前に島を離れて命拾いした青年の話などから、大噴火の状況が以下のように明らかになった。

 大噴火は8月7日夜から10日朝までの間に発生した。それまで、鳥島は典型的な二重式火山だった。しかし、中央火口からの激しい爆発によって火口丘は吹き飛ばされ、その跡に南北1000メートル、東西400メートル、深さ300メートルあまりの大きな火口が形成されたのである。

 噴火の前に様ざまな異常現象が認められたことも、一人生き残った青年の話から明らかになった。たとえば、噴火の2年ほど前から植物が立ち枯れし始めていた。3カ月ほど前から鶏が時を告げなくなったり、北海岸の千歳浦にあった温泉の水温が急に上昇していた。海岸から熱湯を噴出し、8月5日にはかすかな鳴動も感じられた。

 これらは大噴火の前兆現象だったのだろうが、科学的な観測など行われていなかった当時のこと、島民は突然の大噴火に遭遇して全滅することになったのである。

 この大噴火の後、鳥島はしばらく無人島になっていたが、戦後になって、台風の洋上観測体制を整備するために、1947年、気象庁は鳥島に気象観測所を設置し、三十数人の職員が交代で常駐して、厳しい自然条件の下で気象観測に従事することになった。

 当時は台風観測の最前線として大きな役割を果たした観測所も、1965年、火山性地震が頻発し始めたため、噴火に備えて同年11月15日に閉鎖された。以後鳥島は再び無人島となり、現在に至っている。

 この間、いったんは絶滅したとされていたアホウドリが、ごく少数ながら島に生存していることが、観測所員によって発見されていた。1962年1月、筆者らはアホウドリの番組取材のため、鳥島に上陸した。このとき、アホウドリの数は、わずか35羽前後だったと記憶している。

 その後、アホウドリの保護と増殖に向けて、環境庁(当時)や野鳥の研究家などが、様ざまに工夫をこらして努力を積み重ねた結果、現在は3500羽を超えるまでに生息数が回復しているという。しかし、鳥島火山が将来噴火すれば、アホウドリの繁殖地が破壊される恐れがある。このため、雛を小笠原聟島に移送し、新たな繁殖地として定着させる事業が近年進められており、成果を挙げている。

 振り返ってみると、もし1902年の大噴火によって、アホウドリを乱獲していた人間の集落が滅びなければ、鳥島のアホウドリは絶滅していたかもしれない。鳥島火山の大噴火が、皮肉にも国際保護鳥アホウドリを絶滅の危機から救ったともいえよう。

筆者:NPO法人防災情報機構 会長 元NHK解説委員 伊藤 和明

〈記事一覧〉
【国土を脅かす地震と噴火】38 鳥島大噴火㊤ 助かったのはたった1人/伊藤 和明
【国土を脅かす地震と噴火】39 鳥島大噴火㊦ 絶滅からアホウドリ救う/伊藤 和明

この連載を見る:
平成30年12月3日第3187号7面 掲載

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