【国土を脅かす地震と噴火】30 横浜地震 世界初の地震学会が誕生/伊藤 和明

2018.09.13 【労働新聞】
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寝起きでも研究者魂を発揮
イラスト 吉川 泰生

 明治の文明開化とともに、いわゆる“お雇い外国人教師”の来日が続いていた1880年(明治13年)2月22日、強い地震が横浜市を襲った。午前0時50分頃というから、真夜中に市民を驚かせた地震であった。

 この地震は「横浜地震」と呼ばれており、日本の近代的な地震学の基礎を築くきっかけとなった。震源地は東京湾の中部で、地震の規模はM5.5~6.0程度と推定されている。横浜では震度5に相当する揺れに見舞われ、家屋の壁が剥げ落ちたり、多くの煙突が倒壊するなどした。墓地では多くの墓石が転倒、回転する被害が生じた。2人が死亡したとも伝えられる。

 横浜では、とりわけ外国人が住んでいた、いわゆる“西洋館”の損傷がめだった。当時の横浜には、ヨーロッパやアメリカから招かれて日本に滞在していた外国人が多数居住していたのである。

 彼らが来日してまず驚いたのは、地震の多いことであった。そのような外国人教師の1人に、イギリス人のジョン・ミルンがいた。来日してからしばしば小規模な地震を体験していたミルンは、日本で近代的な地震観測を開始する必要性を感じ始めていた。その矢先に横浜地震が発生したのである。

 横浜の自宅で激しい揺れを体験したときの模様を、ミルンは手記に残している。それによると、ベッドから飛び起きた彼は、頭上に灯っていたランプと時計により、震動の開始と継続時間を正確に把握した。その後、すぐ地震動の実験に使っていた装置の所に行き、地震の揺れが治まってからも2つの長い振り子が2フィートの振幅で揺れていたことを知り、この振り子と頭上のランプの揺れから、衝撃の大体の方向が分かったと記している。

 この手記から、ミルンはすでに簡単な地震観測を始めていたことが理解できる。彼は後に、「この横浜地震が自分の人生の曲がり角だった」と述懐している。

 横浜地震を契機に、ミルンは「日本で地震の研究を進めるためには、多くの専門家の協力と知識の集約が必要であり、そのためには学会を設立する必要がある」として、数人の友人とともに委員会を組織した。やがて在日の外国人教師や技術者、日本人の有志らによって、「日本地震学会」が設立されることになったのである。横浜地震からわずか2カ月後のことで、世界最初の地震学会でもあった。

 さらにミルンは、もう1人のイギリス人お雇い教師だったジェームズ・ユーイングとともに、水平振り子を使った地震計を製作した。こうして、日本で初めての物理的な地震観測が始められることになったのである。

 ミルンは、横浜地震の翌年に当たる81年(明治14年)、函館にある願乗寺の住職・堀川乗経の長女・トネと結婚している。

 ユーイングは、5年間の在日のあと帰国していったが、ミルンはその後も日本に滞在し、95年(明治28年)に帰国するまで、地震学の発展に尽くした。その功績から、ミルンは「近代地震学の父」とも称せられている。

筆者:NPO法人防災情報機構 会長 元NHK解説委員 伊藤 和明

この連載を見る:
平成30年9月17日第3177号7面 掲載

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