【国土を脅かす地震と噴火】45 関東大震災③/伊藤 和明

2019.01.24 【労働新聞】
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馬車も飛ばした火災旋風

NPO法人防災情報機構 会長
元NHK解説委員
伊藤 和明 氏

 東京では、火の帯が次から次へと合流を重ね、下町一帯をなめつくしていった。その後の調査から、この時の延焼速度は、毎時18~820メートルに達していたという。

 猛火に追われた人々は、道路をいっぱいに埋めて避難を始めた。しかし、後ろから迫る火に焼かれ、あるいは持ち出した大量の荷物によって道を塞がれて焼死する者もあった。

 さらに避難民の行く手を阻んだのは、隅田川など多くの河川であった。隅田川では、両国橋と新大橋を除き、橋はすべて焼け落ちた。逃げ場を失った人々は大混乱となり、川に飛び込んで溺死した者も少なくなかった。

 川の両側が火の海となった永代橋では、橋の両端から押し寄せた人々が中央でひしめき合っているうちに橋に火が付いたため、みな水中に飛び込み、多数が溺死したという。永代橋は、夜9時ごろには焼け落ちてしまった。こうして隅田川など東京市内の河川では、無数の溺死体が水面を覆う結果となったのである。

 この地震で最も悲惨な出来事とされているのは、東京本所の被服厰跡での大惨事である。ここは、かつての陸軍省被服厰の跡地が東京市に払い下げられた広場で、約6万8000平方メートルという広大な敷地であった。当然、人々はここを絶好の広域避難場所と考え、地震直後から続々と広場へ集まってきた。

 集まった人々は、はじめのうちは、広い敷地に避難できた安心感からか、談笑しながら握り飯を頬張るなどしていた。しかし、時間とともに群集は増え続け、やがて広場は人と荷物で身動きもとれないほどになった。

平成31年1月28日第3194号7面 掲載

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