【国土を脅かす地震と噴火】19 島原大変① 火砕流が5年で約9千回/伊藤 和明

2018.05.24 【労働新聞】
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凄まじい熱風で窓枠まで歪む
イラスト 吉川 泰生

 長崎県島原半島の中央に位置する雲仙岳は、東西に延びる雲仙地溝帯の中に噴出した火山群で、中央部の妙見カルデラ内に主峰の普賢岳がある。有史以後の噴火はいずれも普賢岳に限られてきた。

 最近では、1990年11月17日に噴火を開始した。翌91年5月には、山頂部に溶岩ドームが出現し、その先端が崩落することによって火砕流が生じ始めた。6月3日には、やや規模の大きな火砕流が発生し、島原市上木場地区を中心に43人の犠牲者を出すとともに、家屋179棟が焼失した。6月8日には更に大きな火砕流が起きて207棟が焼失したが、人的被害はなかった。

 火山活動は、95年まで続き、山頂部に次々と生じた溶岩ドームの先端が崩落しては、火砕流が頻発した。活動が終息するまで、火砕流の発生回数は9400回あまりを数えた。この間、山麓を覆った火砕流堆積物が大雨のたびに流れ出し、土石流となって多くの家屋を埋没させる被害も起きている。

 雲仙岳が噴火したのは、約200年ぶりのことであった。この火山は、1663年(寛文3年)と1792年(寛政4年)に噴火し、それぞれ溶岩を流出している。

 1663年の噴火では、北東山腹から溶岩を約1.5キロ先まで流出した。このときの溶岩流は「古焼溶岩」と呼ばれている。また、翌年の春には、九十九島(つくもじま)火口から出水して、土石流により30人あまりの死者を出した。

 歴史に残る大災害となったのは、1791~92年(寛政3~4年)にわたって続いた活動の最終段階で、「島原大変」と呼ばれている。91年11月、島原半島の西部を中心に地震が頻発し始めた。半年後の大災害に至る一連の地変の幕開けである。地鳴りを伴う地震が続き、小浜村(現在の小浜温泉付近)を中心に、家屋が潰れたり、山の斜面が崩れるなどして2人の死者が出た。

 この後、地震に関しては徐々に治まっていったが、年が明けると火山がしきりに鳴動し、まるで遠雷を聞くようだったという。そして2月10日(旧1月18日)の深夜、激しい地震とともに噴火が始まった。噴火の初期には、山頂に近い普賢神社の祠の前に小さな火口が開き、小石や泥土を噴き出すとともに噴煙が空高く上昇した。東麓に当たる島原の城下町にもかなりの降灰があったらしい。

 その後、活動はいったん小康状態となったものの、2月27日、普賢岳の山頂から北東へ1キロほど離れた穴迫(あなさこ)という谷間で、新たな噴火が始まった。初めのうちは、鳴動とともに砂礫を噴出する程度の噴火だったが、3日程経つと、夜には赤い火がみえるようになり、近づいて谷を見下ろすと、焼け岩が現れていた。溶岩が流出し始めたのである。長さ100間(180メートル)、幅70~80間(120~140メートル)ほどだったという。

 溶岩は穴迫谷をゆっくりと流下したが、幸いその流路には民家もなく、人的・物的な被害は生じなかった。溶岩流の先端からは、絶えず焼け石が崩れ落ち、辺りの草木に燃え付いたものの、谷にはまだ雪があったので、燃え広がることはなかった。

筆者:NPO法人防災情報機構 会長 元・NHK解説委員 伊藤 和明

〈記事一覧〉
【国土を脅かす地震と噴火】19 島原大変① 火砕流が5年で約9千回/伊藤 和明
【国土を脅かす地震と噴火】20 島原大変② 溶岩見物でお祭り騒ぎに/伊藤 和明
【国土を脅かす地震と噴火】21 島原大変③ 地割れが城内を貫通する/伊藤 和明
【国土を脅かす地震と噴火】22 島原大変④ 夜が明けたら山は半分に/伊藤 和明

この連載を見る:
平成30年5月28日第3162号7面 掲載

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