【国土を脅かす地震と噴火】26 安政南海地震 直近の地震経験が裏目に/伊藤 和明

2018.07.12 【労働新聞】
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堀川を遡上する津波と大船
画 大阪歴史博物館蔵

 安政東海地震によって大災害となった翌日、正確には約31時間後、安政南海地震(M8.4)が発生した。1854年12月24日(安政元年11月5日)午後4時頃のことである。被害は中部地方から九州にまで及び、沿岸部では、震害よりも津波被害の方が著しかった。

 大津波は紀伊半島の南西岸から四国の太平洋岸を襲った。紀伊半島南端の串本で波高15メートル、土佐の久礼で16メートルに達したとされる。紀伊半島や四国の沿岸での被害は甚大で、多数の家屋が流失し、多くの死者が出た。

 特筆しなければならないのは、大阪での津波被害である。津波は、紀伊水道を北上し、地震発生から約2時間後、大阪湾に押し入ったのである。

 水の都・大阪では、物資を海から市中へと船で運べるよう、水路(堀川)が縦横に開かれていた。大阪湾に襲来した津波は、湾に流入する安治川や木津川の河口から堀川に入って遡上し、大災害をもたらしたのである。

 河口付近に碇泊していた数百隻の大船が、堀川を遡上して多数の橋を破壊、崩落させた。道頓堀川に架かる大黒橋には、大小数百隻の船が二重三重に折り重なってしまったという。

 これら堀川には多数の川船が浮かんでいた。遡上してきた大船は、川船に次々と衝突して破壊、あるいは沈没させてしまった。そのため、これら川船に避難していた人々が、皆、川に投げ出され、溺死したのである。

 なぜ多数の市民が川船に避難していたのであろうか。それは、この地震の半年近く前の7月9日(旧6月15日)、伊賀上野付近を震源とする内陸直下地震があり、大阪も強い揺れに見舞われたため、余震を恐れた人々が堀川に浮かぶ小船に逃げこみ、難を逃れたという体験をしたからである。

 伊賀上野の地震は内陸の地震だったので、津波など発生しなかった。その体験が裏目に出たのである。津波による大阪での死者は、341人と伝えられている。

 実は、1707年宝永地震のときにも、津波が大船群を堀川に押し上げて多くの橋を破壊し、500人あまりが死亡していた。しかし、147年前のこの教訓が活かされることなく、安政南海地震で再び津波による犠牲者を出してしまったといえよう。

 過去の出来事を防災に活かすことができなかった大阪の人々は、その苦い経験を後世に伝えて教訓にしようと、地震の翌年、木津川の渡し場に石碑を建立した。

 その碑文「大地震両川口津浪記」には、安政南海地震や宝永地震のとき、堀川でどのような災害があったのか、川船に乗っていたがために多くの溺死者をだした経験を踏まえて、「今後も大地震が発生すれば必ず津波が来るから、川船に避難してはならない」という教えが刻みこまれている。

 石碑は、今も地区の人々によって管理されていて、そこに刻みこまれた文字が消えないよう、毎年1回、碑文の文字に墨が入れられている。時代を超えて災害を伝承することの大切さを、この石碑は物語っているといえよう。

筆者:NPO法人防災情報機構 会長 元NHK解説委員 伊藤 和明

この連載を見る:
平成30年7月16日第3169号7面 掲載

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