【国土を脅かす地震と噴火】35 明治三陸地震津波㊤/伊藤 和明

2018.10.25 【労働新聞】
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洗い流された端午の節句

家屋を破壊し人畜を流亡する
画 富岡 泳洗

 1896年(明治29年)6月15日の午後7時半頃、三陸沿岸の人々は、ゆらゆらとした弱い地震の揺れを感じた。現在の気象庁の震度階では、せいぜい2または3程度だったと思われる。地震の震源は、三陸の沖合い200キロ前後の海底で、地震の規模は、津波を考慮に入れた場合、M8.2前後だったと推定されている。しかし、陸上での揺れが弱かったため、大方の人は気に止めなかった。

 折しもこの日は旧暦の5月5日、端午の節句に当たっていた。沿岸の各地では、祝いの酒を酌み交わすなど宴会が開かれ、なかには、前年に勝利をおさめた日清戦争からの凱旋兵士を囲み、祝賀会を開いている地区もあった。博打に夢中になっていたグループもあったという。

 そこへ、地震から30分余り経った頃、大音響とともに大津波が襲ってきたのである。まさに、不意打ちの津波襲来であった。

 人も家も、たちまち渦巻く波に呑みこまれ、沿岸の集落のほとんどが瞬時に壊滅してしまった。さらに、津波は2波、3波と襲来し、沿岸地域をなめつくした。第2波が最も高く、第1波から辛うじて残された家屋も洗い去られてしまった。

 このときの津波の高さは、平均数メートル~20メートルに達した。岩手県綾里村(現・大船渡市三陸町綾里)では、38.2メートルの遡上高を記録している。

 岩手県山田町では、800戸のうち700戸が流失し、流死者約1000人を数えたという。岩手県田老村(現・宮古市田老地区)では、人口の8割以上が犠牲になるなど、沿岸町村のほとんどで人口の半数以上が失われている。

平成30年10月29日第3182号7面 掲載

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