【国土を脅かす地震と噴火】32 磐梯山の大噴火㊦ 皮肉にも多様な景勝地が/伊藤 和明

2018.10.04 【労働新聞】
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磐梯山と檜原湖

 1888年7月15日の大爆発は、「磐梯の湯」として知られていた上の湯、中の湯、下の湯の3湯のうち、上の湯と下の湯の2湯を吹き飛ばした。中の湯だけは、辛うじて原形をとどめた。約30人の湯治客が死傷したという。

 大爆発とともに小磐梯の山体のほぼ北半分が崩壊し、北方に向かってU字型に開いた崩壊カルデラを生じた。東西約2.2キロ、南北約2キロという巨大な凹地となり、小磐梯の山頂の標高は650メートルほど低くなった。崩壊した山の部分は、大規模な岩なだれとなって北斜面を流下し、5村11集落を埋没させ、477人の死者を出すという大災害をもたらしたのである。

 「今度人命財産に損害を与へしは主として土石の流出して山野田圃を埋没せしに由れり。初め爆発するや其の勢極めて猛烈にして岩石の摧けて空中に飛散せし量も少なからざれども山嶽の大部分は此の時通じて綻裂し大小の片塊と変じ、或は相衝突して粉状と化し地勢の低きに就きて墜落し来り就中(なかんずく)其の軽き部分即ち土石の混合物は廻って遠距離に流出したり」(関谷清景・菊地安『磐梯山破裂実況取調報告』)。

 北斜面を流下した岩なだれは、たちまち北麓の長瀬川の谷に入り、秋元原、雄子沢、細野などの集落を瞬時に埋没して、多数の犠牲者を出した。また、岩なだれの一部は、長瀬川沿いに南下し、川上温泉を埋め、長坂村にまで達した。

 岩なだれの流下速度は、時速約80キロだったと推定されている。こうして、磐梯山麓の約35平方キロが岩屑なだれの堆積物で埋まってしまった。堆積物の総量は、約1.5立方キロと見積もられている。

 また、爆発とともに猛烈な爆風が発生した。岩なだれが流下するに伴い、周辺の空気が大量かつ急速に押しやられたためである。爆風は、森林の樹木を一斉になぎ倒し、多数の家屋を倒壊させた。

 山体崩壊による岩なだれは、長瀬川の上流に当たる大川、小野川、中津川、檜原川などを堰き止めたために、それぞれの河川の水位は上昇し、次第に湖沼と化していった。川沿いにあった檜原村などの集落は、徐々に水没し始め、住民は移転を余儀なくされたのである。かつて会津藩の財政を支えていた檜原金銀山の史跡も、湖底に没してしまった。

 こうして、大噴火から1~2年の間に、現在の檜原湖、小野川湖、秋元湖、五色沼など多くの湖沼が誕生した。秋元湖は噴火からわずか80日、小野川湖は1年3カ月後には満々と水をたたえた。1890年の年末には、ほとんどの湖沼が現在の姿になったという。

 130年前の大噴火で誕生したこれらの湖沼は、現在は裏磐梯の景勝地として、多くの観光客を招き寄せている。大災害の傷あとが、現在は地元の産業経済を潤す観光資源になっているといえよう。

 したがって、今、裏磐梯の景勝地を訪れる人々は、皮肉なことに、観光の対象として、過去の大災害が残した多様な景観を楽しんでいることになるのである。

筆者:NPO法人防災情報機構 会長 元NHK解説委員 伊藤 和明

〈記事一覧〉
【国土を脅かす地震と噴火】31 磐梯山の大噴火㊤ 富士山型から山容が一変/伊藤 和明
【国土を脅かす地震と噴火】32 磐梯山の大噴火㊦ 皮肉にも多様な景勝地が/伊藤 和明

この連載を見る:
平成30年10月8日第3179号7面 掲載

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