【元漫才師の芸能界交友録】第31回 島田紳助② 芸界入りを後押し/角田 龍平

2020.02.27 【労働新聞】
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常に優しく声を掛けてくれた
イラスト・むつきつとむ

 1995年早春。大阪はキタの歓楽街・兎我野町にある太融寺は、男子高校生が待ち合わせるには不向きな場所だった。ちょうど1年前、太融寺で行われた「オール巨人の漫才道場」の1次オーディションで相方と出会った。

 「漫才道場」は巨人さんが漫才師になりたい道場生を鍛えて、コンクールに挑戦させるという関西テレビ『紳助の人間マンダラ』の企画だった。神戸市に住む相方も、私と同じようにひとりオーディションを受けに来ていた。漫才師志望なのに不愛想ではしゃがないところが気になり、私から声をかけ漫才コンビ「おおかみ少年」を結成した。

 太融寺から関西テレビへ向かう私たちの足取りは、半年前と比べて幾分重かった。前年の夏、「今宮こどもえびす新人漫才コンクール」で優勝したご褒美にスタジオへ呼んでもらった時も、太融寺で待ち合わせ関西テレビをめざしたが、その時は初めてのスタジオ出演に胸躍るばかりだった。京都市内の進学校に通っていた私は、収録中に紳助さんから「京大へ行って漫才をやれ」と助言された。

 「これからどうしたら良いかということは紳ちゃんに聞きなさい。紳助は上手いことやってくれるから。こんだけ交渉上手はおらん。吉本ナンバーワン!」。同期の巨人さんに太鼓判を押され、満更でもない紳助さんは「任せとけ。はっきりいうて、俺に任せくれたら北方領土を3日で取り返せるで」と嘯き、出演者と観覧客を笑わせた。

 年が明け、センター試験で箸にも棒にもかからない点数しか取れなかった私は早々に京大への進学を断念した。センター試験の翌日、阪神大震災で被災した相方は自宅が全壊し、仮設住宅に身を寄せていた。途方に暮れた私たちは、再び太融寺で待ち合わせ、『人間マンダラ』の収録で関西テレビにいる紳助さんを訪ねた。

 「巨人の正式な弟子になって楽屋マナーを勉強しろ。3年は絶対辞めるな。その間は基本に忠実な漫才をやりなさい」。紳助さんにそういわれ、私たちは芸界に入った。その日を境に、芸界の習わしに従い、「紳助さん、巨人さん」という呼称を「紳助師匠、巨人師匠」に改めた。

 阪神・巨人師匠の漫才を舞台袖で、紳助師匠のトークをスタジオで勉強できるのは芸人修行には最高の環境だった。しかし、最高の環境ゆえ挫折をするのも早かった。みればみるほど、10年後、20年後、30年後に、自分が師匠方のようになれるとは思えなくなっていったのだ。

 約束の3年を待たずに芸界から去ることを決めた私に、紳助師匠は「せっかく知り合えたんやから、辞めても遊びに来いよ」といってくれた。思い返せば、いつも紳助師匠は優しかった。テレビ局でも、劇場でも、巨人師匠の付き人をする私をみつけると、声を掛けてくれた。

 先日、神戸地裁での裁判を終えた私は、三宮まで足を延ばし、太融寺界隈のように風俗店が並ぶ路地裏の小さな串カツ屋の暖簾をくぐった。相変わらず不愛想ではしゃがない串カツ屋の大将の顔をみると、ふたりで紳助師匠を訪ねた25年前のあの日の記憶が蘇った。

筆者:角田龍平の法律事務所 弁護士 角田 龍平

この連載を見る:
令和2年3月2日第3247号7面 掲載

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