【元漫才師の芸能界交友録】第6回 上野山善久(元箕島高校野球部主将) 40年前の「美しき隠蔽」/角田 龍平

2019.08.01 【労働新聞】
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土で血を隠したという…
イラスト・むつきつとむ

 高校野球が好きだった。5歳の夏にみた、早稲田実業のエース荒木大輔が池田高校の山びこ打線に打ち込まれて大敗した試合を鮮明に憶えている。小学生になると高校野球に関する書物を読み漁り、物心つく前の記憶にない記録を辿るようになった。本の中の登場人物だった上野山善久さんと知り合ったのは、それから二十数年後のこと。春夏連覇した箕島高校の主将は、少しお腹の出たサラリーマンになっていたが、持って生まれたキャプテンシーが滲み出る実直な人柄の男性だった。

 昭和54年8月16日。甲子園の土を踏んだ上野山さんはあたかも雲の上にいるかの如くフワフワしていた。球史に残る箕島対星稜、延長18回の死闘。上野山さんはおたふく風邪に罹患していた。1対1で迎えた延長12回表の星稜の攻撃。走者一・二塁で、セカンドを守る上野山さんの前に高いバウンドの打球が飛び込む。目が霞んでボールがみえなかった。打球は上野山さんのグラブをすり抜けた。二塁ランナーがホームインして、星稜が勝ち越し。マウンドに野手が集まる。いつもなら、主将の上野山さんが率先してマウンドへ向かうが、この時ばかりはエラーをしたその場に茫然と立ち尽くしていた。

 エースの石井毅投手は保育園の頃からの幼馴染で、一緒に野球を始め、兄弟のように育った。野球留学などなく、高校野球の地域代表的性格が今より色濃かった時代。石井投手はマウンドから失意の幼馴染を励ました。

 延長12回裏、箕島の攻撃。いとも簡単に2死を取られると、ネクストバッターズサークルにいた嶋田宗彦捕手は打席へ向かうことなくベンチへと歩を進めた。「監督、ホームラン狙って良いですか?」。センスの塊のような嶋田選手だったが、大言壮語を吐く男ではなかった。そして、名将尾藤公監督はバントなどを好み、堅実な野球をモットーにしていた。「長打を狙え」と指示を出すことは決してなかった。「よう、あんなこというなぁ」。ベンチにいる誰もがそう思った。ところが、尾藤監督は破顔一笑、「狙ってこい!」と送り出した。

 打席に立つ嶋田選手を祈るようにみていた上野山さんの左右の鼻から鯨が潮を吹くように大量の鼻血が吹き出す。真っ赤に染まるユニフォーム。「病気がバレたらまずい」。ベンチの下の土をユニフォームに擦りつけ、血を隠した。世の中には美しき隠蔽もあるのだ。嶋田選手が宣言どおり本塁打を放った瞬間、一番跳び上がって喜んだのは上野山さんだった。試合はさらに二転三転した末、延長18回裏に箕島が4対3でサヨナラ勝ちを収める。

 しかし、人生は18イニングでは終わらない。上野山さんは高校卒業後、大学を経て、社会人野球の選手として活躍したが、野球人生に付いて回る延長18回の名勝負がいつしか重荷となっていく。「高校野球は終わったこと。もうええやん」。星稜戦を冷静に振り返るには、もう少しイニングを重ねる必要があった。

 「あの試合で学んだ諦めない心を伝えたくて、子供たちに野球を教えている」。58歳になった上野山さんの言葉だ。あの試合から40年目の夏がやって来た。

筆者:角田龍平の法律事務所 弁護士 角田 龍平

この連載を見る:
令和元年8月12日第3220号7面 掲載

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