【元漫才師の芸能界交友録】第30回 島田紳助① 急造コンビに一目ぼれ/角田 龍平

2020.02.20 【労働新聞】
  • list
  • クリップしました

    クリップを外しました

    これ以上クリップできません

    クリップ数が上限数の100に達しているため、クリップできませんでした。クリップ数を減らしてから再度クリップ願います。

    マイクリップ一覧へ

    申し訳ございません

    クリップの操作を受け付けることができませんでした。しばらく時間をおいてから再度お試し願います。

学問のススメも説いた
イラスト・むつきつとむ

 1994年2月20日。高校2年生だった私は、正午になると日曜日のルーティンでテレビのチャンネルを8に合わせた。司会の島田紳助さんが、オール巨人さんらとスタジオでトークをしながら思いつきで企画を決めていくその番組が好きだった。ソファに寝転びながらテレビをみていた私は、巨人さんの一言に思わず姿勢を正した。

 「ちょっと僕が考えてるんやけど。あのぉ、漫才師を作るという、簡単にいうとそういうことなんやけど。漫才師になりたい方いてるやんか。募集して、面接やって何人か選ぶわけですけども。最終的にふたりを一生懸命教え込んで、あるコンテストに出して」。紳助さんも乗り気だ。「そうしよう! それで優勝! 目標、優勝! 名前どうしよ? オール近鉄・南海?」。

 まさか自分が「オール近鉄・南海」(仮名)になるとは思いもしないで、画面に映る「オール巨人の漫才道場」の募集要項を必死にメモした。芸人になるという夢を秘かに抱いていたが、誰にも胸の内を明かしたことがなかった。高校2年生にもなると、担任の先生と進路について面談を行う。文化祭で漫才をしたり、体育祭で女装をしたり、学校行事の度に道化を演じる私に対する担任の評価は低かった。「お前は、笑わせてるんやない。笑われてるんや」。

 そういわれると、将来の進路を問われても口ごもるしかなかった。しかし、物理の先生にお笑いを評価される謂れはない。私は専門家に評価を委ねるため、「漫才道場」に応募した。

 専門家の評価は思いの外、高かった。4カ月後の6月14日付日刊スポーツの紙面には、「高3生に紳助・巨人もマイッタ!? 天才漫才師」という見出しが躍り、両手を広げて片足を上げ、おどけたポーズを取る私の写真が掲載された。

 「大学受験を控える高校3年生が漫才の非凡なセンスを認められ、島田紳助(38)オール巨人(42)らの後押しを受け、漫才と受験の“笑文両道”を目指している。この“天才漫才師”は京都の私立洛星高校3年の角田龍平君(17)。関西テレビ『紳助の人間マンダラ』(日曜正午)で巨人が主宰する『漫才道場』に今春応募し、急造コンビで漫才を始めた。ー中略ーこの角田君に出会い『初めてダウンタウンに会った時の衝撃を思い出した。話の間、トーンが抜群にいい』と紳助は一目ぼれ。8月の『今宮こどもえびす新人漫才コンクール』に挑戦し、そのままお笑い界へまっしぐらーと行きたいところだが、問題は大学受験。京都でも指折りの進学校に通う角田君の志望は京都大学経済学部で『前から芸人にあこがれていたけど、大学には行きたい』という。紳助、巨人も『どうせやったら京大に入学してから漫才師になっても面白い』と“学問のススメ”を説く」。

 学力の評価は学校の先生に委ねるべきだった。学校の成績は260人中240位で、およそ京大に合格できる成績ではなかった。その夏「今宮こどもえびす新人漫才コンクール」で優勝した私が翌春進学したのは、京大ではなく、漫才の一芸入試で合格した立命館大学法学部だった。

筆者:角田龍平の法律事務所 弁護士 角田 龍平

この連載を見る:
令和2年2月24日第3246号7面 掲載

あわせて読みたい

ページトップ
 

ご利用いただけない機能です


ご利用いただけません。