【本棚を探索】第42回『看護師に「生活」は許されますか』木村 映里 著/谷津 矢車

2022.11.17 【書評】
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無関心から始まる分断

 現代社会を理解するにおいて、「分断」「クラスタ」が大きなキーワードになりつつある。

 わたしたちは、一つの方向に皆で進むことができなくなった。自由という価値が広く認知、支持された成果であろうし、構成員一人ひとりを画一的な存在と仮定して設計されていた社会システムが機能不全を来たす姿を目の当たりにしているからでもあるだろう。現在、人々は至る所で小集団=クラスタを形成し、小さな真実を選び取って生き、結果として、社会のあちこちで分断が起こっている。

 わたしは小説家である。社会の枠組みの中で生きられなかったからこそ今の生業に就いている。多様性が尊重される現代社会の方向性には手放しで賛同する立場である。しかし一方で、多様性を尊重するあまり、他人のなさりようについて見て見ぬ振りを繰り返し、結果的に他人への興味を閉ざしている観もあって、時々居心地の悪さを感じることがある。

 今回わたしがご紹介する書籍、『看護師に「生活」は許されますか 東京のコロナ病床からの手記』は、コロナ禍の最中に看護師として医療に従事していた女性による手記である。コロナ禍初期、世間の人々から受けた差別、家族に保菌者(注:コロナウイルスは菌ではない)扱いされて看護師を辞めさせられてしまった同僚、次第に形成されていった医療関係者への重すぎる賛辞や過度な期待、そして、SNSで形成されていった共感の輪と、影のようにまとわりついてくる、反医療的なスタンスを持った人々の姿……。これらの現実が、現役看護師としての歩みと共に真摯に綴られ、発言のニュアンス一つで一般の人たちに誤解を与えてしまう恐れや、コロナ禍という未曾有の事態をどのように伝えていくべきかという著者の葛藤が吐露されている。

 ページを繰りながら、わたしは慄然とした。医療者の皆さんがパンデミック下で必死になって社会を支えてくれている――。こうした言葉を、時候の挨拶のように軽々に述べていた時期がなかったか。コロナ禍の嵐吹き荒れる最中、わたしも医療関係者にレッテルを貼っていなかったか。そして、医療関係者の皆さんに重圧を与えていると顧みることすらせずに、耳に心地いい言葉をSNSに書き連ねることで、良識ある大人のふりをしてはいなかったか。告白しなければならない。わたしは本書を読むまで、医療従事者という「自分と違うクラスタの人々」に対し、本質的な意味において無関心だった。建前によって塗り固められた定型文を用いて、社会の分断に加担していたのだ。

 分断は無関心から始まる。裏を返せば、世の中のさまざまな事象に目を向けることから、分断への抗いが始まる。わたしたちは自由だ。だからこそ、外で起こっていることに対する関心を失ってはならない。相手の在り方を早呑込みせず、立場の違う人々の言葉に耳を傾け続けること、そこから始めなければならないのだろう。

(木村 映里 著、Pヴァイン刊、1738円税込)

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小説家 谷津 矢車 氏

選者:小説家 谷津 矢車(やつ やぐるま)
歴史・時代小説家、戯作者。1986年、東京都生。2012年『蒲生の記』で第18回歴史群像大賞優秀賞を受賞。主な作品に『おもちゃ絵芳藤』、『廉太郎ノオト』など。近刊に『ええじゃないか』、『宗歩の角行』。

 書店の本棚にある至極の一冊は…。同欄では選者である濱口桂一郎さん、三宅香帆さん、大矢博子さん、月替りのスペシャルゲスト――が毎週おすすめの書籍を紹介します。

令和4年11月21日第3377号7面 掲載

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