【書方箋 この本、効キマス】第58回 『わたし、定時で帰ります。3―仁義なき賃上げ闘争編―』 朱野 帰子 著/大矢 博子

2024.03.21 【書評】
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「残業したい」の背景は?

 今、大河ドラマで吉高由里子さんが紫式部を演じているが、彼女を見るたびに思い出すドラマとその原作小説がある。2019年に放送された、『わたし、定時で帰ります。』だ。

 ヒットした作品なのでご存じの方も多いだろうが、吉高さん演じるIT企業の社員が、毎日定時の18時に会社を出ることを貫くという、言ってしまえばそれだけの話だ。なぜこのドラマを強烈に覚えているかというと、NYタイムズが記事で取り上げたのである。どうして定時に帰るという当然のことが日本ではドラマになるのかという趣旨の記事で、いやそうだよね、と思わず笑ってしまった。笑いごとじゃないんだけど。

 主人公の東山結衣は32歳。彼女は私生活を大事にしたい、仕事に私生活を侵されたくないというだけなのだが、その姿勢への風当たりは強い。残業せずにタスクをこなせるということは優秀な証拠なのに、周囲はそう見ないのだ。そして結衣はさまざまな出来事を通して、自分が定時に帰るためには他の人にもそうなってもらわなくてはならないと気付き、「私生活より仕事が優先」と思い込んでいる人々の洗脳を解いていく、というのが物語の基本線だ。

 ドラマになったのは2巻までだが、原作にはドラマ化の際にカットされたエピソードがある。第1巻では、無理な受注でチームが疲弊し、それでも上司の理不尽な命令に逆らえない様子を太平洋戦争時のインパール作戦に、第2巻では(ネタバレになるのではっきりとは書かないが)ある状況を赤穂事件に喩えているのだ。それらを引き合いに出すことで、いかに日本人のメンタリティが変わっていないかを浮き彫りにするのである。実に上手いので、ドラマを見た人もぜひ原作をお読みいただきたい。

 さらに、その後に出た第3巻の〈仁義なき賃上げ闘争編〉は管理職必読だ。チーム全体の生産性を上げ、残業を減らしてきた功績が評価されて管理職になった結衣。しかし直面したのは、残業をしたがる若者たちだ。しかも不要な残業を自ら作り出している。なぜなら彼らは残業代がないと生活できないから。

 役員たちの世代は、一人の稼ぎで配偶者と複数の子供を養い、マイホームを持つことも可能だった。しかし現在は物価も社会保険料もまったく違う。結婚も出産も、お金がないからという理由で踏み切れないのだ。

 アンチ残業を標榜してきた結衣が彼らに対し、そして会社に対してどんな行動に出るかが読みどころ。ちなみにこの3巻で引き合いに出される史実は女工哀史だ。さらに1920年に作業員たちが大ストライキを敢行した官営八幡製鉄所のエピソードも紹介される。現実の厳しさや苦さ、理想だけでは会社は動かないという事実をきちんと織り交ぜながらも、爽快な落としどころが用意されているのが良い。

 表紙は少女漫画的なイラストだし、30歳代の女性が主人公のお仕事小説でロマンスもあるというと女性だけが対象の小説だと思われるかもしれないが、実はかなり骨太なシリーズなのである。とくにこの3巻は働き方改革の功と罪の両方が現場の目線でしっかりと描かれている。残業カットを推し進める側に、ぜひ読んでほしい1冊だ。

(朱野 帰子 著、新潮文庫 刊、税込880円)

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書評家 大矢 博子 氏

選者:書評家 大矢 博子

 レギュラー選者3人と、月替りのスペシャルゲストが毎週、書籍を1冊紹介します。“学び直し”や“リフレッシュ”にどうぞ。

令和6年3月25日第3442号7面 掲載

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