【本棚を探索】第34回『この夜を越えて』イルムガルト・コイン 著/三宅 香帆

2022.09.15 【書評】
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現代にも重なる信念の形

 小説を読んでいると、まったく別の時代、別の国の物語なのに、なぜか現代のいま自分がいる場所と重なることがある。ふいに、「あれ、これは本当に他の時代の物語なのだろうか?」と不思議に思う瞬間があるのだ。

 本書は1930年代のドイツが舞台、つまりはヒトラーが総統として頭角を現していた時代の物語である。しかし、そこに描かれる人々の心理は、国も時代も政治状況もまったく異なるにもかかわらず、なぜか今の時代と重なるものがある。

 主人公はフランクフルトに住む少女ザナ。彼女のもとに、恋人のフランツから手紙が送られてくる。彼はケルンに住んでいるのだが、その手紙には「もうすぐ会いに行くかもしれない」と書いてある。一方で、ザナの住む街にはヒトラー総統がやってきて、兵士の軍楽セレモニーで盛り上がっていた。街のあちこちには「ユダヤ人お断り」の紙が貼られており、小説家は書くものを統制され、ユダヤ人とドイツ人の結婚が禁止された時代だった。

 第二次世界大戦前のドイツというと、「ドイツの国民は皆ヒトラーに熱狂していた」と評されやすい。だが、実際にワイマール時代からドイツで活躍していた女性作家である作者の描く本書を読むと、必ずしもみんながみんな、彼らの熱狂に乗っていたわけではないことが分かる。たとえば、ザナの女友達であるゲルティについては、軍人たちを眺めながらこう述べる姿が描かれている。

 「ゲルティは、ほんとうはみんな、こういうえらそうな男たちを見るのはあんまり好きじゃない、えらそうな男たちのほうがずっと、わたしたちに見られるのが好きなのだ、と言った」

 ザナやゲルティといった若い少女たちは、街の熱狂を、意外にも冷めた目で見ているのだった。彼女たちは、政治的な思想信条がしっかりあるわけではないが、集団の過激さに「何やってるんだろうこの人たちは」と一歩引いた目で見る。彼女たちだけではなく、本書に登場する民衆は、皆自分の思想をはっきりと決めきれず、また時代の流れに対して複雑な感情を抱いていることも同時に描かれている。この描写は現代に生きる私たちとしてもかなり共感できるものである。

 見たことのない時代の流れに対して、すぐに自分のイデオロギーを決めきれる方が危ないのではないだろうか。大衆は、政治や為政者に翻弄されながらも、それでも自分なりの信条を形作っていくしかないのではないだろうか――本書を読んでいるとそう感じるのだ。その姿勢が必要となるのは、決して当時のドイツに限った話ではないだろう。

 主人公をはじめとした当時のドイツに住んでいた登場人物たちの複雑な描写は、恐らく作者の見た現実そのものだったはずだ。作者はナチ政権下の1937年、亡命先のオランダで本書を出版している。100年近く経った今、ザナたちの息遣いが日本でよみがえることを心から喜びたい。何の権力も持っていない少女たちが、それでも自分の信じるものを手放さないためにとった行動を、私たちは知る必要がある。

(イルムガルト・コイン著、左右社刊、2750円税込)

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書評家 三宅 香帆 氏

選者:書評家 三宅 香帆

 書店の本棚にある至極の一冊は…。同欄では選者である濱口桂一郎さん、三宅香帆さん、大矢博子さん、月替りのスペシャルゲスト――が毎週おすすめの書籍を紹介します。

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令和4年9月19日第3369号7面 掲載

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