【国土を脅かす地震と噴火】27 安政江戸地震 作動しなかった避難設備/伊藤 和明

2018.08.23 【労働新聞】
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ここでもナマズが悪さか
イラスト 吉川 泰生

 1855年11月11日(安政2年10月2日)の夜10時頃、江戸市中は強烈な地震に見舞われた。典型的な都市直下地震で、地盤の軟弱な下町の被害が大きかった。倒壊家屋は、1万4000戸余りに達した。

 現在の日比谷から丸の内、大手町にかけても激しい揺れに見舞われ、とくに丸の内辺りにあった大名屋敷の被害が甚大であった。

 そもそも日比谷の“日比(ひび)”は、“海苔ひび”が語源で、その昔は、入江で海苔の養殖が行われていたのである。この入江は、17世紀初頭、幕府によって埋め立てられ、町づくりが進められてきた。埋め立てた土砂の厚さは、丸の内付近で約10メートル、日比谷では約20メートルに達するという。軟弱な人工地盤が地震の揺れを増幅したのである。

 激震によって瞬時に多数の家屋が倒壊したため、市中30カ所余りから出火した。ただ幸いなことに、この夜は風が穏やかだったため、ほとんどが火元の周辺で消し止められており、広域火災には至らなかった。

 江戸地震による死者の数は、1万人前後といわれている。当時の江戸の人口は100万人余りとされているので、死亡率は約1%ということになろう。

 江戸下町を中心とした被害分布などから、地震の規模はM7.0~7.1、震源は東京湾北部付近だったと推定されている。

 江戸市中で、とりわけ酸鼻をきわめたのは、遊郭の新吉原であった。この遊郭は、浅草北部の水田を埋め立てて造成されていたから、地盤が良いはずはない。そこに激しい揺れが襲いかかってきたのである。

 しかも、地震の起きた夜10時頃といえば、遊郭はまさに歓楽のさなかであった。倒壊した家々から出火して、逃げ惑う人々の上に猛火が襲いかかってきた。遊女も客も、折り重なるようにして焼死したといわれている。

 遊郭は堀に囲まれていて、普段の出入り口は、大門1カ所しかなかった。遊女たちが逃げ出さないよう、検問を厳しくしていたからである。しかし、緊急時には、数カ所あった反り橋を下ろして堀に渡し、人々を避難させる手筈になっていた。反り橋は、いわば緊急避難設備であった。

 ところがこのとき、反り橋は1つも下りなかったのである。地震の揺れで歪んだのか、長い間使わないうちに破損したり錆びついたりしていたのか、堀に渡すことができず、その結果、大門だけに人々が殺到してパニックとなり、死者を増やす原因となったのである。猛火に追われて堀に飛び込み、溺死した者も少なくなかったという。

 いかに緊急時の防災設備を用意していても、常時の点検を怠ったり、災害時の対応策を整えていなければ、いざという時に役立たないことを、この事例は物語っているといえよう。

 新吉原での死者は、1000人前後だったといわれている。江戸地震全体の死者は約1万人とされていることを考えると、ここだけで全体の約1割を占めていたことになる。

筆者:NPO法人 防災情報機構 会長
元・NHK解説委員 伊藤 和明

この連載を見る:
平成30年8月27日第3174号7面 掲載

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