【国土を脅かす地震と噴火】23 善光寺地震㊤ 火災からの生存者は1割/伊藤 和明

2018.06.21 【労働新聞】
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暗闇はお戒壇巡りだけで勘弁
イラスト 吉川 泰生

 今から170年あまり前、現在の長野市を中心に大災害をもたらした内陸直下地震があった。「善光寺地震」と呼ばれている。

 1847年5月8日(弘化4年3月24日)の夜、善光寺領一帯を突然の激震が襲った。折しもこの年は、善光寺如来のご開帳の年に当たっていた。諸国から多数の参詣者が集まり、善光寺の門前はたいへんな賑わいようであった。新暦の5月上旬といえば、新緑の爽やかな季節を迎えていたはずである。参詣の客は引きもきらず、一晩に1000人以上の客を泊めた旅籠もあったという。

 大地震は、午後10時ごろ、凄まじい山鳴りとともに襲来した。夜とはいっても、善光寺の境内には参詣の人々が溢れていた。読経の声が流れるなか、数千の灯明が堂内を照らし、境内には数百の夜灯が輝いて、あたかも白昼のようであったという。その賑わいを、激震が直撃したのである。

 寺の境内を煌々と照らしていた灯火はすべて消え、たちまち暗黒となった。石像が倒れ、灯籠が転倒した。群衆は大混乱に陥り、右へ左へと逃げ惑うばかりであった。町では多くの家屋が倒壊し、各所で火の手が上がった。善光寺の門前に密集していた旅籠も、たちまち猛火に包まれた。

 善光寺は、本堂や山門、経蔵、鐘楼などを残して、後はほとんどが焼失した。この夜、旅籠には7000~8000人が宿泊していたのだが、火災から生き残った者は、1割ほどに過ぎなかったという。

 地震で壊滅的な打撃を被ったのは、善光寺領だけではなかった。被害は、高井、水内、更級などの諸郡にも及び、家屋の倒壊や火災によって多くの死傷者が出た。上田藩の稲荷山宿では、宿場の200戸あまりが全焼し、360人が犠牲になった。善光寺地震による死者の総数は、1万人を超えると推定されている。

 この地震は、長野盆地の西縁を走る活断層が、約50キロにわたり活動することによって引き起こされた典型的な内陸直下地震である。断層を挟んで西側、つまり山地の側が、東側の盆地に対して、2メートルほどのし上がった逆断層型の地震活動であった。

 家屋の倒壊率をみると、西側の山地、つまり断層の上盤側で著しく高かったことが分かる。内陸の活断層の活動による地震では、一般に逆断層の上盤側の揺れがひときわ激しく、大きな被害の出ることが多い。地震の規模は、M7.4前後と推定されており、震度6以上になったと思われる地域は、長野市を中心にして、南北約80キロ、東西約30キロに及んだ。

 この地震の際に地表に生じた地震断層が、姿を変えながらも地形に残されている場所がある。長野市の中心から南西へ約7キロ、同市小松原にある一軒の民家で、道路に面した石垣そのものが、2メートルほどの落差を持つ断層崖となっている。また長野市西長野でも、地震断層の落差に伴う変位が、約1キロにわたって追跡でき、とくに信州大学教育学部の正門から長野県庁にかけて、西上がり東落ちの地形の変位が、明瞭に認められているのである。

筆者:NPO法人防災情報機構 会長 元NHK解説委員 伊藤 和明

〈記事一覧〉
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【国土を脅かす地震と噴火】24 善光寺地震㊦ 山崩れから大洪水が発生/伊藤 和明

この連載を見る:
平成30年6月25日第3166号7面 掲載

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